2023年4月27日木曜日

ナナカマドの街で

  4月半ばというのに粉雪が静かに舞っていた。駅前から旭川電気軌道のバスに乗った。向かう先は50年前の大学時代に過ごした下宿。旭西橋から見える石狩川は変わらない姿で、雪解け水をたたえて流れていた。言いようのない懐かしさがこみ上げた。

50年目の弔問

「土地勘がまだありますから、わかると思います」。下宿先の長男Nさんには電話でそう伝えていた。電話番号は0166-51-〇〇〇〇。半世紀が過ぎても忘れていなかった。

バスから降りると、かつてあった道立林産試験場は移転していた。畑が広がり冬は地吹雪にも遭遇した下宿周辺は、住宅がびっしり立ち並んでいた。迷子状態になった私を、Nさんが笑顔で迎えに来てくれた。

3歳年上のNさんとは年賀状を交換していた。おばさんの仏壇に線香を上げ、遅れた弔問をわびた。

Nさんとは、下宿が古い建物であったため窓にすき間があり、冬は朝起きると枕元に雪が積もっていたことや、銭湯の帰りタオルが棒のように凍ったことなど、同じような体験談で盛り上がった。Nさんの妻が笑顔で供してくれたコーヒーと地元菓子店のどら焼きがおいしかった。

下宿のおばさん

市西郊の下宿には1969年4月の入学以来、4年間世話になった。階下に家主のおばさんがNさんと住んでいた。背筋の伸びた、泰然とした人だった。下宿生9人に朝と夕の2食を賄い、魚の料理が多かった。

肉を食べたくなると、4畳の部屋で友人とジンギスカンを小型電熱器で焼いた。ジンギスカンは100グラム35円。一人500グラム相当食べた。階下にも強い匂いが届いていたはずだが、おばさんは文句らしいことは一度も言わなかった。

大雪で下宿の玄関前を除雪し汗をかくと、背中にタオルを入れてくれた。交通事故に遭い、頭部を何針か縫ったときは、病院に駆け付けて手を握ってくれた。

その頃はもちろん携帯電話はなく、電話連絡といえば下宿の電話を使う以外に方法はなかった。女子学生などから電話があると、おばさんは階段下から「○○さーん、お電話です」と、「お」をつけて2階の下宿生に声をかけるのが常だった。

生き方を模索

ベトナム戦争や沖縄返還問題があり、学生運動が華やかな時代だった。下宿の仲間は学生運動にどう関わるか、将来に向けてどう生きるか等々、徹夜でも議論した。模索しつつ平和や自由を守る社会進歩の側に立って、微力を尽くしたいと考えるようになった。

3年のとき、国立大学の授業料値上げ問題が持ち上がった。値上げされると、新入生が払う授業料や入学金がそれまでの1万9千円から5万3千円にと約3倍に跳ね上がった。その頃は小学校教員の初任給が手取りで5万5千円だった。

学生自治会は教育の機会均等を守ろうと、1週間のストライキを決行。地元紙の北海道新聞は市内版のトップで、「自治会、幅広く反対運動 学内で“庶民集会”も スト期間をフル活用」(1972222日付)と好意的に紹介した。駅前の丸井デパート前の宣伝活動では1時間で市民202人から署名が寄せられ、これも写真付きで紹介された。

政治に道理をもって発信すると、社会から応援を受けることを実感する日々でもあった。

おばさんからの葉書

就職は希望の地ではない道外にやっと決まった。自治会の役員などを務めると、「思想差別」を受ける時代でもあった。赴任先から下宿のおばさんに、「大変ご心配をおかけしました。全体重をかけて仕事に励む決意です」と葉書を送ると、折り返し葉書が届いた。消印は197351日。いまではすっかり黄ばんでいるが、達筆な文字が読み取れる。

「お便りうれしく拝見いたしました。貴兄の笑顔が目に浮かび、直接お目にかかったような、うれしさでした。お元気によい土地柄に勤務され、本当によろしゅうございましたね。四年間本当にお世話になりました。数々の思い出つきません。四月はあわただしい月です。何卒御身お大切に。お母様に時々お便りをお出しくださいね。いずれまた。お元気にね」

おばさんは母親と手紙をやり取りしていた。その年の夏、帰省し、下宿を訪ねると、おばさんの顔色が悪かった。翌年の暮れ、Nさんから喪中はがきが届いた。

24時間出入りできた厚生会館

Nさんは大学まで車で送ってくれた。構内に学生自治会の立看(たてかん)はなかった。昼時だったが、学生のアジ演説もなく、静寂そのものだった。

学生当時、自治会室やサークル室がある厚生会館は、学生自治会が自主管理するという自治が自治会と大学当局との団交などで確認されていた。学生は24時間出入りでき、課外活動でも真理・自由・団結などの価値をかぎりなく探求できる保障があった。

サークルは僻地教育研究会に属した。メンバーは20人ほどで、部室にはいつもだれかがいた。教育とは何か等の勉強会を重ねつつ、夏には僻地の小・中学校を訪問。体育館の用具室などに寝泊まりしながら、授業を見学し、子どもたちと交流を深めた。最北地では冷害や多額の借金に苦しむ農家の子どもも少なくなかった。

その頃の自治会役員は、朝は自然科学棟の屋上から、昼は厚生会館前でラウドスピーカーを使い、演説した。ビラは、ヤスリの上に置いた蝋引きの原紙を鉄筆でガリガリと削り、それを謄写版で一枚一枚手刷りして仕上げた。数百枚刷ると、原紙に穴があき、その部分が黒ずんだ。気温が零下20度にも下がる冬の朝は、凍ったインク缶を自治会室の石炭ストーブの上に乗せて溶かす作業が必要だった。石炭になかなか火が点かず、着火させる古新聞もなくなって慌てることがしばしばあった。

今回訪ねた厚生会館は新しい建物(写真)に替わり、自治会室やサークル室が別の建物に移されていた。新しい建物内の食堂で、隣のテーブルの学生に話しかけると、宮城県出身の1年生だった。「中学時代の担任が生徒一人ひとりを大切にする先生でした。ぼくも教員になりたいと思っています」と語り、4月からアパート生活を始めたという。

e shall overcome

大学から駅まではバスが来るまで時間があったため、歩くことにした。途中、常盤(ときわ)公園に寄ると、池のそばで貸ボートの手入れが行われていた。岸辺の柳の木は健在で、緑豊かになびく夏の光景を思い出した。

続いて平和通買物公園へ。ブロンズ像が街の落ち着いた文化的な雰囲気を醸し出している。旭川は街中や公園に約100基の彫刻がある「彫刻のまち」だ。

駅前緑橋通りの中央分離帯には「旭川市の木」ナナカマドが立ち並んでいた。春には白い花が咲き、秋には赤い実がなり、まちが彩られる。冬にはそこに帽子のように雪が積もる。学生時代のデモは緑橋通りを歩きながら「We shall overcome」(「勝利を我らに」)を歌い、シュプレヒコールを上げた。

  帰りの飛行機は夕刻、羽田に着いた。駐機場の飛行機に夕陽が反射していた。客室乗務員のアナウンスが柔らかく響く。「きょうの東京は春の風が心地よい一日になったようです。どうか目的地までお気をつけておいでください」。新たな気概を覚えつつ、降り口に向かった。