その一人、藤沢市のOさんは同映画に、「感銘を受けた。自分のこれまでの生き方が恥ずかしいと思った」と強く共感したことを紹介しつつ、「自分も何かできることがあれば。みなさんがんばってください」と激励の言葉を寄せました。中村さんの生き方と弊会の取り組みに、平和や人間の尊厳を守るなどの点で響き合うものがあると思われたのでしょうか。
恐縮しつつ、より喜ばれる紙面づくりにまい進したいと思います。
その一人、藤沢市のOさんは同映画に、「感銘を受けた。自分のこれまでの生き方が恥ずかしいと思った」と強く共感したことを紹介しつつ、「自分も何かできることがあれば。みなさんがんばってください」と激励の言葉を寄せました。中村さんの生き方と弊会の取り組みに、平和や人間の尊厳を守るなどの点で響き合うものがあると思われたのでしょうか。
恐縮しつつ、より喜ばれる紙面づくりにまい進したいと思います。
小麦は雲仙山麓の肥沃な土地に産するとのこと。島原のうどん造りの歴史は、島原の乱(1637年)のころまで、さかのぼるといいます。同乱は、過酷な年貢の取りたてに抗したキリシタン農民らによる、江戸時代最大規模の一揆でした。
お昼ごはん用に、大好きな焼うどんを作りました。乾麺から焼うどんを作るのは初挑戦でしたが、具材にたっぷりの長ネギと、豚肉を使い、調味料は極力減らして薄味に。
手軽に出来上がりましたが、歴史を学びながらいただくと、うまみも増すように感じられ、おいしかったです。
医師中村哲さん映画会(12月8日、海老名市文化会館、えびな・九条の会主催)。師走の夜の行事だったが、幅広い年代から238人が参加した。
映画はアフガニスタンで1984年に医療支援を開始し、干ばつ対策の用水路建設へと活動を広げた氏の歩みを活写。その生き方は「人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ」と高貴だ。
同時に長男に、「俺は行動しか信じない」と直言したように、きわめて実践的だ。現地の言葉を覚えて信頼関係を築き、工事現場では泥にまみれて一緒に作業を行う。
当夜も、「中村哲の生き方は日本国憲法が人間になったように思った」(70代、厚木市)と強い感動を呼んだ。
くわえて、「友だちから『無ぼうだよ』と言われても、自分をつらぬき通そうと勇気をもらつた」(10歳、綾瀬市)と小学生の共感が生まれたように、憲法的で自律的な生き方は必ず引き継がれるとの確信を深める会でもあった。
ラジオ体操の会は、健康づくりに市民だれでも地域をこえて自由に参加をと、2015年に地元自治会の協力も得てスタート。正月も含めて年中無休で実施し、いまでは市内のいくつもの地域から参加する広がりに。
体操の前後には近況や健康状況などについて話を交わし、会は“安否確認の場”ともなっています。また、夏には地域の子どもや保護者も参加し、子どもらの生活のリズムをつくっています。2019年には全国ラジオ体操連盟から、健康増進に寄与していると表彰されました。
ただ、開始から8年が経過するなか、参加者の好意で用意されたラジオ(8台)は次第に劣化し、更新の必要に迫られているのも事実です。
参加者のこうした会の紹介とその熱意に、市の担当課は会の活動が補助金の趣旨に「マッチする」と答えました。
交付の合否は3月のプレゼン待ちですが、市役所からの帰途、参加者がいっしょに飲んだコーヒーはとてもおいしく感じられました。
参加者に歩み寄ったのはガザ出身(伊勢原市在住)のタメル・シュバイルさん(34)。現地の肉親はイスラエル軍による爆撃で家が瓦解し、「野外で寝ている」と顔を曇らせます。妻(28)は頭から血を流す叔父の動画をスマホで見せつつ、「戦争は早く終わってほしい」と真剣な表情で語りました。写真はガザ出身の夫妻と子ども=12月8日、海老名駅前
即時停戦を求める署名には48人がサイン。大和市の女性は、「もどかしい気持ちだった。署名し、少しでも力になれたかなと思う」と語りました。参加者16人。
ガザの難民キャンプで、イスラエルの爆撃により命を落としたライアンさん(8)。夢は看護師になって命を救うことだったといいます。
ガザでの死者数が1万人を超えました。うち子どもは4104人(6日時)。子どもへの爆撃は自衛でもなんでもありません。グテレス国連事務総長も「ガザの悪夢は人間性の危機」と訴えます。
ところが、きのう発表された主要7カ国(G7)外相会合の声明は、イスラエルの「自衛権」を明記。戦闘の「一時的中断」を求めるだけで、停戦そのものは求めませんでした。議長国である日本の責任が厳しく問われます。
いまこそ、平和を願う世界中の人びとと連帯し、「だれも殺すな」「今すぐ停戦を」の声をあげようではありませんか。5分でも10分でも、ぜひご参加ください。
記
〇行事名:「だれも殺すな!停戦を」駅前スタンディング
〇日時:11月11日(土)13時30分~
〇場所:海老名駅東口自由通路
〇プラカードを用意します(持ち込みも歓迎)
〇主催:えびな・九条の会
先日、訪ねると、豆を大事そうに抱えたお客さんが、店の前の停留所からバスに乗り、帰っていった。
店のテーブルには、中村哲さん映画会(12月8日、海老名市文化会館小ホール、18時45分開演)のチラシが置かれている=写真=。
付き合いが生まれたことで、筆者の家でも最近は朝食後、同店のコーヒー豆をひく。立ち上がる香ばしい香りと、深みのある味わい。地域の文化の薫りを感じるひとときでもある。
店主はラジオ体操の仲間です。ただ最近は体調がよくなく、お休みがち。店頭で談笑することが続いています。
帰宅後、いただいたコロッケは、外はサクッと、中はホクホク。さすがおいしい味でした。
元東京都世田谷区立桜丘中学校長・西郷孝彦さんの講演会(自主夜間中学・えびなえんぴつの会主催)が10月9日、海老名市で開かれました。雨の中、85人が参加しました。
西郷さんの原点の一つは校内暴力が吹き荒れた区立中学。自殺する生徒が続く中、子どもの命を真ん中に位置づけた学校づくりをと決意しました。
「すべての子どもたちが3年間を幸せに過ごす」が目標の桜丘中学。授業に間に合えばOKと、遅刻は取るのをやめ、定期テストも廃止して小テストに。教室に入れない子は職員室前の廊下で勉強し、良質な机と椅子を置くと、朝8時から勉強する子も。七夕は「浴衣の日」とし、学校も 約150着用意しました。
生徒から「自分で考えて行動できる」「個性を出せる」と評されるなか、いじめは激減し、学力が区のトップレベルに。
教員増などに教育予算を倍にすると、教育問題のほとんどが解決すると話す西郷さん。なぜそうならないのかとの質問には「だまされない、頭の良い市民が育っては困るから」と語り、「おかしいと言いましょう」と呼びかけました。
AさんからBさんに。でもノートの名前の欄はAさんのままでした。表情は心なしか暗い。
声をより多くかけるようにしました。児童が関心を持ちやすい、7枚のピースを組み合わせて形をつくる「タングラム」にも興味を示すようになりました。
きのう、教室にやってきたBさん。顔を私に近づけ、「きょうね、楽しみなんだ。ママといっしょに夕ごはんを食べに行くの」。
本当にうれしそうでした。 写真=ルビースター
神奈川県海老名市の九条の会は10月14日、海老名駅東口自由通路で、「生かそう憲法」駅前スタンディングを行いました。85回目。
秋晴れのもと、17人が参加。赤ちゃんを抱えた女性はスピーチで、「憲法は大切なものです。駅前で『守ろう』」と訴えていることに励まされました。少しでも耳を傾けてくれると、うれしいです」と訴え、拍手に包まれました。
海老名に遊びに来たという小田原市と横浜市の高校2年生の5人組は、そろって「大軍拡・大増税に反対する署名」にサイン。圧巻だったのは、その一人がマイクを握り、「『戦前』NO!」のポスターを高く掲げつつ、「戦争反対」「戦争反対」と10回ほど駅前を行き交う人々に元気よくコールしたことです。長崎に行ったとき、原爆の悲惨さに接し、戦争はダメだと思うようになったと話しました。
帰り道、民家の庭でハスの花が咲いていました=写真=。3日間咲いたり、しぼんだりを繰り返し、4日目には花びらをパラパラと落とすといいます。はかない命ですが、空に向かってすっと咲く薄い紫色の花。神秘的で、言い表しがたい美しさがありました。
「ご近所の農家さんの」とのこと。
北海道のトウモロコシは旬のピークが本州より遅く、8~9月といわれています。
早速、ゆでました。
しっかり粒が詰まっていて=写真=、みずみずしく、甘い!
何本でも食べられそうでした。
「国語や社会がきらい」。3年生のRさんが言いました。「学校は好きなこと、一つでもあるといいんだよ」と話すと、そばで母親も「そうそう」とうなづきました。
「また来るよ」。子どもらはそう言いながら帰っていきました。
16人が参加。ジャズが流れ、ヒマワリの鮮やかな花も用意される中、「兵器より災害対策」「NO WAR」などのポスターが掲げられました。
スピーチでは戦争体験が語られるとともに、憲法9条に基づく「戦わない覚悟」で、平和外交や民間交流をとことん貫くことこそ、平和を守り抜く大道だと強調されました。
ポスターを見た横浜の高校生からは『平和外交いいね』との声が上がりました。大軍拡・大増税反対の署名には18人が応じました。
上映するDVDは、「医師中村哲の仕事・働くといくこと」(所要時間47分、語り室井滋)。
中村さんは1946年福岡県生まれ。パキスタンやアフガニスタンで約35年かけてハンセン病患者や難民らを支援し、アフガニスタンでは病気の背景に干ばつがあると、自ら重機を操縦しつつ住民を励ましながら用水路を建設。19年12月4日、アフガニスタンで凶弾に倒れましたが(享年73)、同地では現在も「ドクター中村は亡くなっていない。魂は今もここにある」と語り継がれ、ナカムラと名付けた通りや広場があります。
会事務局には、
開催日時:2023年12月8日(金)18:45~20:00
場所:海老名市文化会館小ホール
参加費:無料
参加方法:事前予約制。メール(ebinakyuujou@gmail.com)か、電話(046-232-7991)で申し込みください。
蒸し暑い日となりましたが、16人が参加。「駅前の空気がなごやかになれば」と参加者が音楽機器からジャズを流す中、「九条生かした外交を」などの手書きポスターが掲げられ、足を止める若い人らの姿がありました
スピーチでは、改憲・大軍拡への批判、平和憲法の値打ち、戦争体験、マイナ保険証への懸念などについて発言。沖縄・辺野古新基地建設反対の現地参加者からは、「ウミガメの産卵地も埋め立てられていて、胸が痛かった」との報告がありました。
大軍拡・大増税に反対する署名には17人が賛同。「戦争はだめ」と述べた綾瀬市の60代の女性からは「頑張ってください」との激励も送られました。
海老名市や平塚市などの市民5人が会ニュースの読者になりました。
参加者の感想では、「カサカサした世の中だが、きょうは駅前のジャズに文化の薫りを感じた市民がいたと思う。岸田首相は今国会閉会時の会見でも『憲法を改正する』と言明した。憲法を守る九条の会の活動はますます重要だ」と語られました。
どうでした?
「1勝1敗でした。韓国の選手は身体が大きく、おとなみたいでした」
出場した?
「出ましたよ」
日本サッカー協会のホームページによると、彼は2戦目、ゴール前にドリブルで侵入し、相手DF3人に寄せられてもかわしてシュート。惜しくも得点にはならなかったのですが、活躍した様子が紹介されています。
毎朝、登校前に広場にやってきて、ラジオ体操中の私たちの横でドリブルやシュートの練習に励む少年。稚拙な私とのパス交換などにも気さくに応じてくれます。
ラジオ体操仲間の間では、「みんなで応援に行く機会がそう遠くはないかも」と盛り上がっています。
「保健室に行ったほうがいいよ」。額に血がにじんでいたので、児童は驚いた様子でした。
昇降口で靴を履き替え、階段を上り、保健室へ。少しふらつく身体。両脇で付き添ってくれる4年と3年の児童は、ふだん学習支援教室にやってくる子でした。
午後の勉強が始まる時間でした。教室に戻ってと伝えましたが、「大丈夫だよ」と、児童は保健室まで同行。保健の先生に経緯を真っ先に話してくれました。
正直、心強かったです。心配してくれた児童のやさしさに、感謝でいっぱいの気持ちになりました。
「子どもと遊んでくださり、ありがとうございました」。保健の先生のひとことにも心を打たれました。
Mさんは父親がハンセン病でした。国の誤った施設入所政策の下、まん延した偏見と差別。家は放火され、友だちもいなく、一人でいることが当たり前でした。
Mさんなどによる国訴訟は2019年に勝訴し、政府も「人権啓発に取り組む」と約束。だが人権侵害は入管行政でも、性的マイノリティにも続いています。
負けない。Mさんの参加したハンセン病問題の集い(写真)では、朗読やピアノ演奏から「仲間だよ」との思いが伝わってくるようでした。
小学生のころ漢字や読み書きの正確さに困難があり、しかられてばかりだったと明かす花緑さん。40歳を過ぎてから自身が発達障害だと知ります。
体験を踏まえて、日本では人と違うところがあると恥ずかしさになり、自主性も大切にされていないと指摘。「学ぶことは大人になっても学べる。友だちは大人になってもできる」と励ましつつ、「人と比べるのをやめると楽になります。自分のよいところを大事にしましょう」と包容力のある発言が続きました。
すべての人が生きやすい社会の展望についても、「義務教育の一斉教育をやめて、個別指導にするなどシステムを変えると社会は変わる」と語りました。
落語では表情豊かに一級の話芸を披露しました。
神奈川県海老名市の国指定史跡「相模国分寺跡」=写真=の隣接地に計画される14階建てマンション(高さ43㍍)について、事業者の明和地所(東京都)はこのほど計画を見直すことを明らかにしました。具体的な内容は検討中とされますが、戸建ての宅地分譲などもと報じられています。
市は当初、「計画は法律や市条例に適合しており、見直しをとは言えない」と述べて手続きを進行。事業者も住民説明会(2022年9月21日)で、「ぼくらの土地ですから、計画通り進めます」と豪語する始末でした。
市民は「国史跡の景観を守ろう」の一点で、立場や考えの違いを超えて連帯。有志128人が名前と町名を公表して立ち上がったこともその一つです。市民世論の広がりを前に、市長も「文化財の景観としてどうかと思う」と口にせざるを得なくなりました。
「大幅変更」も含む見直しに市民からは、「ここまで追い込んだのは市民の運動ですね」「まずはよかったです。運動の成果ですね」と喜びの声が上がっています。
今回も自転車整備士の資格を持つというスタッフがすぐ対応してくれ、空気を保持する虫ゴムが劣化しているとのことでした。
えっと思ったのは、「料金はいいですよ」と言われたこと。店の料金表には虫ゴムの交換代が記されていたからです。しかも他店購入の自転車の場合は少し高めでした。
そのご自転車は空気漏れもなく、快調です。「あそこの自転車屋さんは親切丁寧」との口コミを広げたい気分です。
いま、ウクライナ問題などを口実に、「日本も外国から攻められたらどうするのか」との議論が繰り返されています。
この憲法9条の世界史的な意義は、憲法が施行された当時、読売新聞も社説(1947年5月3日付)で、「一切の武力行使は、たとえそれが自衛ためであってもこれを行わぬことを世界に誓った…それは積極的な世界政治思想への先駆なのである」と指摘していました。
こうした軍事を否定する9条の立場は、おのずから日本が他国から攻められることのない外交に、徹底して努力することを要求しています。つまり、9条を全面的に実践するかぎり、日本は他国を攻撃する意図のない国として位置づけられ、仮に攻撃を構えるような国があれば国際的に厳しく糾弾・包囲されることは間違いないでしょう。
戦後の出発点を想起し、9条を生かす政治の実現こそ、いま真剣に求められています。
にもかからず岸田文雄政権は空前の大軍拡をすすめ、緊張をあおるばかりか、9条自体の改憲にも固執している。愚かな政治の極致という他ありません。
熱心に聞き入るMさん。迎えにきたお母さんも横に座っています。
読み終えて、Mさんに提案しました。「こんどは先生が聞き役になるから、Mさん、読んでみない?」
「うん」と快諾したMさん。「お」「ば」「け」と、一字一字区切るように読み進めます。
そばで、お母さんは要所要所で励ますように、「うん、うん」と相づちを打っています。私も同じように、「うん、うん」。
学習障害のあるMさん。帰るさい、お母さんが柔らかな表情で言いました。
「算数はなんとかついていけるようになってきましたが、国語は今日のように声を出して読んだのは初めてです。ありがとうございました」
子どもは伸びる。
50年目の弔問
「土地勘がまだありますから、わかると思います」。下宿先の長男Nさんには電話でそう伝えていた。電話番号は0166-51-〇〇〇〇。半世紀が過ぎても忘れていなかった。
バスから降りると、かつてあった道立林産試験場は移転していた。畑が広がり冬は地吹雪にも遭遇した下宿周辺は、住宅がびっしり立ち並んでいた。迷子状態になった私を、Nさんが笑顔で迎えに来てくれた。
3歳年上のNさんとは年賀状を交換していた。おばさんの仏壇に線香を上げ、遅れた弔問をわびた。
Nさんとは、下宿が古い建物であったため窓にすき間があり、冬は朝起きると枕元に雪が積もっていたことや、銭湯の帰りタオルが棒のように凍ったことなど、同じような体験談で盛り上がった。Nさんの妻が笑顔で供してくれたコーヒーと地元菓子店のどら焼きがおいしかった。
下宿のおばさん
市西郊の下宿には1969年4月の入学以来、4年間世話になった。階下に家主のおばさんがNさんと住んでいた。背筋の伸びた、泰然とした人だった。下宿生9人に朝と夕の2食を賄い、魚の料理が多かった。
肉を食べたくなると、4畳の部屋で友人とジンギスカンを小型電熱器で焼いた。ジンギスカンは100グラム35円。一人500グラム相当食べた。階下にも強い匂いが届いていたはずだが、おばさんは文句らしいことは一度も言わなかった。
大雪で下宿の玄関前を除雪し汗をかくと、背中にタオルを入れてくれた。交通事故に遭い、頭部を何針か縫ったときは、病院に駆け付けて手を握ってくれた。
その頃はもちろん携帯電話はなく、電話連絡といえば下宿の電話を使う以外に方法はなかった。女子学生などから電話があると、おばさんは階段下から「○○さーん、お電話です」と、「お」をつけて2階の下宿生に声をかけるのが常だった。
生き方を模索
ベトナム戦争や沖縄返還問題があり、学生運動が華やかな時代だった。下宿の仲間は学生運動にどう関わるか、将来に向けてどう生きるか等々、徹夜でも議論した。模索しつつ平和や自由を守る社会進歩の側に立って、微力を尽くしたいと考えるようになった。
3年のとき、国立大学の授業料値上げ問題が持ち上がった。値上げされると、新入生が払う授業料や入学金がそれまでの1万9千円から5万3千円にと約3倍に跳ね上がった。その頃は小学校教員の初任給が手取りで5万5千円だった。
学生自治会は教育の機会均等を守ろうと、1週間のストライキを決行。地元紙の北海道新聞は市内版のトップで、「自治会、幅広く反対運動 学内で“庶民集会”も スト期間をフル活用」(1972年2月22日付)と好意的に紹介した。駅前の丸井デパート前の宣伝活動では1時間で市民202人から署名が寄せられ、これも写真付きで紹介された。
政治に道理をもって発信すると、社会から応援を受けることを実感する日々でもあった。
おばさんからの葉書
就職は希望の地ではない道外にやっと決まった。自治会の役員などを務めると、「思想差別」を受ける時代でもあった。赴任先から下宿のおばさんに、「大変ご心配をおかけしました。全体重をかけて仕事に励む決意です」と葉書を送ると、折り返し葉書が届いた。消印は1973年5月1日。いまではすっかり黄ばんでいるが、達筆な文字が読み取れる。
「お便りうれしく拝見いたしました。貴兄の笑顔が目に浮かび、直接お目にかかったような、うれしさでした。お元気によい土地柄に勤務され、本当によろしゅうございましたね。四年間本当にお世話になりました。数々の思い出つきません。四月はあわただしい月です。何卒御身お大切に。お母様に時々お便りをお出しくださいね。いずれまた。お元気にね」
おばさんは母親と手紙をやり取りしていた。その年の夏、帰省し、下宿を訪ねると、おばさんの顔色が悪かった。翌年の暮れ、Nさんから喪中はがきが届いた。
24時間出入りできた厚生会館
Nさんは大学まで車で送ってくれた。構内に学生自治会の立看(たてかん)はなかった。昼時だったが、学生のアジ演説もなく、静寂そのものだった。
学生当時、自治会室やサークル室がある厚生会館は、学生自治会が自主管理するという自治が自治会と大学当局との団交などで確認されていた。学生は24時間出入りでき、課外活動でも真理・自由・団結などの価値をかぎりなく探求できる保障があった。
サークルは僻地教育研究会に属した。メンバーは20人ほどで、部室にはいつもだれかがいた。教育とは何か等の勉強会を重ねつつ、夏には僻地の小・中学校を訪問。体育館の用具室などに寝泊まりしながら、授業を見学し、子どもたちと交流を深めた。最北地では冷害や多額の借金に苦しむ農家の子どもも少なくなかった。
その頃の自治会役員は、朝は自然科学棟の屋上から、昼は厚生会館前でラウドスピーカーを使い、演説した。ビラは、ヤスリの上に置いた蝋引きの原紙を鉄筆でガリガリと削り、それを謄写版で一枚一枚手刷りして仕上げた。数百枚刷ると、原紙に穴があき、その部分が黒ずんだ。気温が零下20度にも下がる冬の朝は、凍ったインク缶を自治会室の石炭ストーブの上に乗せて溶かす作業が必要だった。石炭になかなか火が点かず、着火させる古新聞もなくなって慌てることがしばしばあった。
今回訪ねた厚生会館は新しい建物(写真)に替わり、自治会室やサークル室が別の建物に移されていた。新しい建物内の食堂で、隣のテーブルの学生に話しかけると、宮城県出身の1年生だった。「中学時代の担任が生徒一人ひとりを大切にする先生でした。ぼくも教員になりたいと思っています」と語り、4月からアパート生活を始めたという。
We shall overcome
大学から駅まではバスが来るまで時間があったため、歩くことにした。途中、常盤(ときわ)公園に寄ると、池のそばで貸ボートの手入れが行われていた。岸辺の柳の木は健在で、緑豊かになびく夏の光景を思い出した。
続いて平和通買物公園へ。ブロンズ像が街の落ち着いた文化的な雰囲気を醸し出している。旭川は街中や公園に約100基の彫刻がある「彫刻のまち」だ。
駅前緑橋通りの中央分離帯には「旭川市の木」ナナカマドが立ち並んでいた。春には白い花が咲き、秋には赤い実がなり、まちが彩られる。冬にはそこに帽子のように雪が積もる。学生時代のデモは緑橋通りを歩きながら「We shall overcome」(「勝利を我らに」)を歌い、シュプレヒコールを上げた。
帰りの飛行機は夕刻、羽田に着いた。駐機場の飛行機に夕陽が反射していた。客室乗務員のアナウンスが柔らかく響く。「きょうの東京は春の風が心地よい一日になったようです。どうか目的地までお気をつけておいでください」。新たな気概を覚えつつ、降り口に向かった。3月3日に亡くなったノーベル賞作家の大江健三郎さん(享年88歳)は、九条の会の呼びかけ人です。会発足十周年の講演会(2014年)では「九条の会の大江です」が「得心できる」と自己紹介。改憲世論を逆転させた草の根運動への確信にあふれていました。
■広島、長崎、沖縄に
05年の東京講演会では1万人を前に、「広島、長崎、沖縄で人間として決して受忍できない苦しみをこうむったことを、私たちは記憶し語り続ける」。被爆地や沖縄にたびたび足を運び、人間と憲法の視座から、英知に満ちた言葉を発し続けました。
■平和主義は憲法の核心
憲法九条の戦争放棄・戦力不保持については、「憲法の一番よい核心」(12年)と高く評価。安倍晋三元首相の集団的自衛権容認の企てに対しては「アメリカ軍への奉仕として押し通そうとしている。恐ろしい」(14年)と、危険な対米追従性を厳しく批判しました。
■国に変化はありうる
大江さんは国の「変化」をあきらめずに追求し続ける知識人でした。05年の講演会ではアメリカの詩人の詩から「求めるなら変化はくる、決して君の知らなかった仕方で」を紹介。自分が地上からいなくなっても若い人らが担い続けるならば、「この国に変化がありうる」と九条の会などの草の根運動に希望を語りました。
レゲイ調の反戦歌が流れるにぎやかな雰囲気のなか、大軍拡・大増税に反対する署名に若い女性がサイン。「戦争は絶対ダメ」と力を込めました。秦野市の70代の女性も、「物価が高くなり、生活は苦しいですよ。なんとかして欲しい」とペンを走らせました。
スピーチでは、岸田大軍拡や改憲案の緊急事態条項の危険性などを告発。辺野古新基地建設の断念を求める署名も訴えられました。
18人が参加。終了後、音楽を準備した男性は、「自分なりにできることをやりたいと思った。参加してよかった」と感想を語りました。
更地の状態が続いています。“止まっている”ように見える国史跡「相模国分寺跡広場」横の高層マンション建設計画。現在の状況について、海老名市に話を聞きました。
◇
市まちづくり課担当者の話 事業者・明和地所に市から開発の協議書を「締結しましょう」と、1月27日に送ったが、それが返ってきていない。協議書は、事業者と市の関係部署との協議内容をもとに作成されているので、通常は1週間ほどで戻ってくる。今回はだいぶずれている。市から事業者に、「締結はいつごろか」と問い合わせをしているが、「検討中」とはっきりしない。市としては待つしかない状態だ。
◇
これまで同史跡の周囲は2階や3階の建物が主で、景観が保たれていました。そこに、14階建て、高さ43㍍のマンションを建てるという今回の計画。同じ国分寺跡が所在する東京・国分寺市では「あり得ない」(同市担当課)話です。
「1300年にわたり先人たちから受け継いできた歴史的な景観をぜひ守りましょう」―市民はこの大義ある願いを訴え続けます。(写真は相模国分寺史跡広場で満開となった桜=3月29日)
通路側に座る乗客の若い方がシートベルト着用のサインが消えると立ち上がり、前方へ。スペースのある個所の窓に顔を近づけています。
戻ってくると、「富士山がすごくきれいですよ。あそこの窓からよく見えます」。
若い方は自ら見た光景を他人に紹介しなくても済んだはずです。でも、旅の感動を分かち合いたいと思われたのでしょうか。
フレンドリーな姿勢や親切に接し、心がポッとあたたかくなりました。
◆相模国分寺ラジオ体操くらぶ 早朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い、健康づくりとコミュニケーションの促進をと、NHKのラジオ体操に合わせて実施しています。どなたも参加できます。日時:年中無休(雨天中止)、6時30分。場所:相模国分寺史跡広場(写真)。費用:無料。
江戸時代に大名庭園として築成された、池を中心に茶室や橋、小高い山がある回遊式庭園です。現在、国の名勝に指定されています。
ちょうどボランティアガイドと出会い、Mさんに案内をお願いしました。
丁寧な説明のなか、とりわけ熱が込められたのは、虹のように反り返る跨虹橋(ここうきょう、俗称:太鼓橋)=写真=の前に進んだときです。1945年の原爆により、庭園は壊滅状態になりましたが、花崗岩で造られた跨虹橋は原型を留めたといいます。
続いて大銀杏(おおいちょう)の前では、原爆投下後の火災から生き残った木と説明。爆風で傾いたものの、樹齢は200年以上と推定され、海外に贈られた種が平和を訴えています。
「跨虹橋も大銀杏も、広島の被爆者や市民を励まし続けてきました」。Mさんの説明が重く響きました。
目の前の大きな鉄板。水で溶いた小麦粉の上に、キャベツ、もやし、焼きそば、豚肉などが乗せられていきます。「じっくり焼き上げる」が店の”売り”で、個別に焼くものもあり、店の人の労力は大変です。出来上がった「そば肉たま」は素材が生き、だしやソースの味と一体化した絶妙のおいしさ。ボリュームも満点で、待ったかいがありました。
店名に「〇〇ちゃん」が多い広島のお好み焼き店。理由の一つは、原爆や戦争で夫を亡くした女性が生きていくために、自宅を改装して店を始めたケースが少なくないためといいます。
お腹いっぱいに食べられる平和を。旅行から帰宅後、自宅でつくったお好み焼き(写真)を食べながら、広島のお好み焼きに込められた願いを想像しました。
「おっ」と思いました。写真集や絵葉書などと並んで、漫画「はだしのゲン」が置かれていたからです。広島市教委はこのほど市内の小学校低学年向け副教材から同漫画を外すと判断していました。ちなみに資料館の運営は広島市出資の公益財団法人・広島平和文化センターです。
はだしのゲンは、原爆の悲惨さとともに、被爆地でたくましく生き抜こうとする主人公ゲンらの姿を迫力ある筆致で描く名作です。私の子どもも小学生時代、同書をボロボロになるまで繰り返し読んでいました。
いまも自宅の書棚に並ぶゲンのシリーズ。欠巻の第1巻(写真)をショップで買い求めました。レジの人に売れ行きをたずねると、「ええ、売れていますよ」。うれしくなりました。
リニューアル(1994年)後、初の訪問です。原爆被害の惨状を伝える数々の資料。初めて見る写真が少なくありません。「焼け跡に立つ少女」=写真=もその一つでした。
少女は10歳。強烈な熱線を浴び、飛び散ったガラス片で顔中負傷するとともに、右手に重いやけどを負います。指はくっつき、切り離す手術を受けざるをえませんでした。成長し、結婚後2人の子どもを育てますが、30代でがんに侵され、42歳で亡くなったといいます。
人生これからというときです。どんなに生きたかったことでしょう。
資料館に置かれた入館者用ノートに、「自分の生き方を見直そうと思った。まず自己中をやめる」との感想がありました。
私も、訴えたくても訴えられなくなった戦争犠牲者の平和への願いをしっかり背負い、生き抜かなければと思います。
気温20度と暖かな日差しが降り注ぐ中、20人(子ども2人含む)が参加。「緊急事態条項の危険性を訴えるため、九条の会とコラボしたい」という子育て世代も参加して同チラシを配り、にぎやかな宣伝行動になりました。
スピーチでは岸田政権の進める敵基地攻撃能力の保有について、相手の反撃により日本中が焦土化すると批判。改憲案の緊急事態条項の創設についても、内閣の独裁が可能となり、徴兵制の導入など基本的人権を根底から脅かすと告発されました。
大軍拡・大増税に反対する署名に応じた海老名市国分北の70代の男性は、「物価が高いから、年金生活は決して楽ではない。政府は暮らし向けの予算を増やすべきだ」と発言。「母親が沖縄の名護市の出身」と語る伊勢原市の40代の女性は、「新しい基地はいらない。平和が大事だ」。秦野市の20代の男性からは「がんばってください」との激励がありました。
初参加のAさんは、「人権や子育てなどに関心があるが、活動する場がなかった。きょうはもっと伝えたいと思った」。70代のOさんは、「若い世代が参加し、同世代の人にも改憲問題に興味を持ってもらえた」と感想を語りました。