制作に賛辞を送りたい。映画『宝島』。米国統治下の沖縄の人々は抑圧され、もがき続ける。祖国復帰デモの先頭に立つ若い教員。凛とした姿は勇気が湧く。
米国言いなりの政治は今も続いている。宝島の主人公は命がけで叫んだ。平和な未来を「俺はあきらめんよ」。転換期の現在、重く響く。
制作に賛辞を送りたい。映画『宝島』。米国統治下の沖縄の人々は抑圧され、もがき続ける。祖国復帰デモの先頭に立つ若い教員。凛とした姿は勇気が湧く。
米国言いなりの政治は今も続いている。宝島の主人公は命がけで叫んだ。平和な未来を「俺はあきらめんよ」。転換期の現在、重く響く。
小4のとき小学校の図書室で全10巻を読み、いま再読中だという。Iさんは支援教室の終了時間がきても、なかなか本を閉じなかった。
せかされるように帰途につくIさん。大きな声で叫んだ。
「戦争のばかたれ!」
広島原爆を体験したゲンの言葉だった。
新しいプラカード「安心してくらせる日本へ」「ガザ虐殺やめよ」などを掲げつつ、核兵器禁止条約の批准を日本政府に求める日本被団協の署名も呼びかけました。戦争や差別に反対し、くらし・平和・民主主義の擁護をとのスピーチも行われました。
建設業で働く22歳の若者2人は足を止めて核兵器禁止署名にサイン。「戦争反対はルールなのに、守られないのはおかしい」と、写真撮影にVサインで応じました。
参加者からは、「今日は署名者が多い感じだった」「高校生がプラカードを声を出して読んでくれた。音楽(ギターと歌)があったので、注目された」「小学校の退職教員が『戦争だけはなくしたい』と核兵器禁止署名に応じ、会ニュースの読者にもなってくれた」などの感想が出されました。
宮島を訪ねた帰り、路面電車から広島市内の景色を眺めていたHくん。
「あっ、原爆ドームだ」
実物が目の前に現れ、驚いた様子だった。
翌日、原爆ドームのそばへ。崩れた壁、むき出しの鉄骨。原爆のすさまじい破壊力や恐ろしさを80年過ぎても伝え続けていた。
広島平和記念資料館にも足を運んだ。ボロボロになった生徒の制服や帽子、銀行の入口階段に残った人影、救護所で水を求めてうめく被災者の写真等々。館内は大勢の見学者がいたが、被爆の惨状を前に静寂そのものだった。
「怖い」。見学を足早に終えたHくんだが、資料館内で開かれていた、被爆体験を本人に代わって話す「伝承講話」に参加した。15人ほどの参加者の半数は若い人だった。
伝承者の角宮美佐子さんは話を終えると、アンケートを促した。Hくんは自由記載欄に、「広島は昔、大変なことになっていたとわかった」と記した。
帰りの新幹線の中でHくんは、「今回の一番の思い出は?」との問いに、「路面電車かな。お好み焼きかな。いや、やっぱり原爆ドームだ」と話した。
イスラエルの爆撃で電気が止まった仕立屋のアエドさんはミシンを自転車の車輪で動くように改造。手伝う息子のムハンマド君は話す時間が増えたと喜ぶ。
ほほえましい光景だ。
今も大丈夫だろうか。ガザ制圧の即時中止を願わずにいられなかった。
夜のとばりがおりるなか、参加者はキャンドル(LED)をかざし、核兵器廃絶やガザ支援などについてスピーチ。ピアノやバイオリン、ギターの伴奏、ボーカルの歌とともに、「見上げてごらん夜の星を」「イマジン」などを合唱しました。
飛び入りで参加した男子高校生はマイクで、「大きな声で平和を守ろう」とアピール。 核兵器禁止条約を求める署名にサインした座間市の20代の女性は、「核兵器をなくしたいので、がんばっている人がいると、うれしい」と語りました。
澄み渡る青空のもと、約40人が参加。オープニングでは「生かそう憲法」「なくそう核兵器」などのコールを響かせ、「イマジン」「手のひらを太陽に」を元気よく合唱しました。
原爆パネル(海老名市所有)を掲げた憲法パレードでは、バイオリン、ピアニカ、鐘などを奏でながら行進。中央公園でスコティッシュダンスや盆踊りを楽しく繰り広げました。
スピーチでは、憲法の9条に基づく平和や25条に沿う生存権、26条の教育を受ける権利の大切さなどについてそれぞれ発言。憲法が示す戦争放棄や民主的権利は日頃からの主張と努力があってこそ築かれると強調されました。
通りかかった伊勢原市の男子高校生は、九条の会のゼッケン「この先もずっと戦争放棄」を学校の勉強に使いたいので欲しいと要望し、ガザやウクライナの人びとに寄り添いたいと話しました。
九条の会の行事に初めて参加したHさんは、「いろいろアピールできて楽しかった」と笑顔で感想を語りました。
参加する団体は、会報の印刷を外部の会社にネットで依頼している。先日、印刷会社から届いた会報にはいつもは入っている「予備」が見当たらなかった。
問い合わせると、「通常、ヤレ紙(試し刷り)もあるので予備を入れているが、今回はその区別をしていなかった可能性がある」と述べるにとどまらず、「申し訳なかった。予備分を再印刷したい」との回答が寄せられた。
「予備」を本体に加えることはサービスであるはずなのに、丁重な調査に加えて、再印刷の提示があったことには正直驚いた。
会報を実際に仕分けると、予備分が含まれていた。仕切りがなかったため、当方が気が付かなかったのだが、早とちりしたことも否めなかった。恐縮しつつ、そのことを印刷会社に知らせると、折り返し、「安堵した。再発防止に努めます」との再回答が寄せられた。
接客サービスをめぐってはさまざま指摘される昨今だが、今回の印刷会社の対応は誠意を感じ、すがすがしかった。
賞品のなかにはお気に入りのどら焼も。北海道十勝産の小豆を使用した、あんこが美味で、皮もしっとりしています。
価格も同種商品のなかでは抑制気味だけに、値上がりしないことを願うばかりです。
平日の朝ということで客も少なく、音楽以外の音はなし。音楽も自分の好みに合っていて、落ち着きます。
また来ようかな、と思いました。
スピーチでは、近所のスーパーで一番安いコメが5㌔4780円と、昨年の倍以上の値段だと告発。特売のパスタをはさみで米粒サイズにカットして食べるなど、生活苦が広がっていることに触れて、アメリカいいなりで軍事費だけを増大させるのではなく、くらしの充実に税金を回すときだと訴えました。
海老名市上今泉の女性は「アメリカの顔色をうかがってばかりではなく」と述べて、
核兵器禁止条約の批准を求める署名にサイン。学生服姿の男子中学生もペンを走らせました。署名者19人。
「主権者はだれだ/私だ」などのコールも行いました。
「外で食べるおにぎりはおいしかった」「おしゃべりが楽しかった」。みなさんニコニコ顔で帰途につきました。
大きな実績では、ラジオを4台更新したこと。質のよい音が一年を通して安定的に保障され、参加者から喜ばれています。ラジオの電池代は一年を通すと高額になりますが、これまでは一部の市民が負担。これが解消されました。
また、ラミネート機を購入したことで、風雨に強いポスター(自治会の掲示板などに掲示)の作成が可能となり、新しい市民の参加につながっています。
市主催の市民活動展示会にも初めて参加しました。活動内容や参加者の感想を記した掲示物を展示し、参加者は誘い合って見学に行きました=写真=。
全体を通して、健康の維持や交流の拡大にプラスになったと思います。
使用した小豆は北海道十勝産の「きたまろん」。土づくりを重視して栽培したというのが謳い文句です。
水からゆでる「渋きり」からスタート。小豆の渋味や雑味を取り除くためといいます。豆のしんがなくなるまで、ことこと煮て、加水を繰り返します。アクを取り除き、砂糖は甘さ控えめに。妙に心が落ち着きます。
完成!=写真=。パンにはさむと、豆の風味がしっかり感じられ、満足、満足。
じゃ、自分で握ってみようかと、魚屋に。
ちょうど小田原港の朝どれで、刺身になっているムツやシロギスが並んでいました。それらに北海道産のホタテなども加えて、握りに挑戦。
魚の旨味とシャリの風味をうまく組み合わせたいと思ったのですが、やはり整えて握るのが難しい(写真)。でも、手づくりの味は堪能できたと思います。
Iさんは学習支援教室にやってくると、宿題のあと、タングラムに集中する。「はくちょう」「家」など全50種を一通り仕上げたあとも、「またやってみる」と言って、これまで3回やり遂げた。子どもらが難易度を「MAX」と評する「正方形」も、Iさんは難なくこなす。その表情は達成感に包まれている。
3学期末、学習支援員のHさんが「Iさんが新しいタングラムをやりたいと言ってましたよ」。意欲に応えなくては。私は新作に挑んだ.
4月、Iさんに「恐竜もあるよ」と紹介するのが楽しみだ。
1973年3月27日。北海道旭川の4畳一間の下宿先で、父親といっしょに引っ越し作業を行っていた。父親は当時、苫小牧に住んでいた。旭川までは鉄道で片道3時間ほどかかったはずだ。
荷物の送り先は私の就職先である神奈川の小都市。私の心には旅立ちを前に沸き立つものがあったと思う。
父親は普段から寡黙だった。このときも黙々と、布団は小豆色の布団袋に、本は木造りのリンゴ箱にと詰めてくれた。本の中には大学一年のときの隣室からの火事で表紙等が焦げた漢和辞典=写真=もあった。
当時、父親は40代半ばで、郵便局に勤めていた。管理職でもなく、薄給だったと思うが、仕送りが滞るようなことはなかった。私は奨学金をもらっていたが、本もたくさん購入できた。
あれから半世紀余。来月14日は父親の8回忌だ。
九条の会は、憲法を守る講演会や茶話会、駅前スタンディングなどの活動をパネルで紹介。会ニュース読者を新たに10人迎えました。
対話を通してある市民は、学童疎開中、東京方面の空が空襲で赤く染まっていたとの記憶に触れて、「戦争は絶対だめ」と話しました。他の市民からも、介護事業所の経営難や郷土芸能の楽しさなどについて語られました。
写真=「仲間づくり相談会」で、越中おわら節を披露する海老名おわら四季の会、3月16日
ラジオ体操クラブではお花見を3月29日に計画していました。「いつもの体操会場の桜の下で、ひととき、お話しませんか」(案内状)
ただ、当日の天気予報からは傘マークがいっこうに消えません。天気は変えられない。けさは「順延か延期を」と、みなさんに相談することに。
「いいんじゃない。私たちは毎朝集まっているんだから、臨機応変でいきましょう」とFさん。Oさんも、「各自おにぎりと飲み物を持って参加すればOKなんだから、小回りを利かせて天気の良い日に開きましょう」。
すてきな仲間たちです。つながりが少しでも広がる、楽しい機会になればと願っています。
新聞の苦境は聞いていましたが、改めて、親切な対応をされた同紙や記者と連帯したいと思いました。
「ラジオ体操は知り合いの方が増えて会話も弾み、老化防止になっています」
「健康はもちろん、それ以上に人の関わりをいただいて、楽しく続けています」
「一人暮らしの老人の安否確認をしてくれる、なくてはならない存在です」
ラジオ体操の集いが地域コミュニティの一つであることが示されています。人とのつながりは健康長寿に欠かせないとの調査(NHK「トリセツショー」100歳特集、昨年12月26日)もあります。その値打ちに光が当たっているのではないでしょうか。
■胸を張れる生き方を
畠山さんの人生の原点は高校生の時のイタリア留学。イスラエルによるガザ封鎖が始まった時で、ガザ出身の同級生に「家が爆撃されるかもしれないとの気持ちがわかるか」と問われた。菓子等がたびたび実家から送られる自分を見つめ、「戦争の時代に胸を張れる生き方を」と思うようになった。
ピースボートは世界各地を船で巡回。鍵盤ハーモニカや救急車などを届けて交流を重ねる。「つながり続ける中、『○○はどうしているかな』と放っておけない関係が生まれている」
その一人、ガザのカラヘルさんは爆撃で建てたばかりの家が壊され、妹を亡くす。寄せたビデオでは「今日の団結は明日の希望になる」と語った。
■果たしたい応答責任
「応答責任」を果たしたいと畠山さん。ガザへの野菜支援のほか、核兵器禁止条約(2017年採択)の締結意義を訴える。それまでの核兵器不拡散条約は核兵器の管理が中心だったが、被爆者が求め続けた同条約は核兵器の開発も保有も使用もすべて禁止した。
海老名市の40代の参加者は「世界で戦争が続く中、自分に出来ることがあると勇気をもらった」と意欲を燃やした。