アジア・太平洋戦争時、兵士は御守を複数所持するのが通例でした。海老名村国分の重田章氏の場合、海老名の寺院をはじめ、鎌倉市の鶴岡八幡宮や茨城県の鹿島神宮、神戸市の湊川神社などの御守20体を携行。
重田氏は帰郷しましたが、 昭和10~20年代の海老名市域での戦死者は約460人。4軒に1軒(昭和15年当時の世帯数は1799世帯)、戦死者を出し、米づくりや養蚕の働き手を失いました。
その一人、石井重夫氏は中国で戦死。22歳。氏の戦地からの葉書には封書を出すことが禁じられたと記し、検閲で塗りつぶされた跡もありました。
また、海老名の子どもから戦地に送られた慰問の手紙は、「しなのへいたいをやっつけて、日本の国をひろくしたい」と、軍国教育の影響が垣間見えるものでした。
押方館長は今回の企画展について、「子どもや大学生、若い年代も来館された」と振り返り、「今後も戦争関係の展示を企画し、次世代に記憶をつなぎたい」と語っています。